愛奴のメンバーであって、吉田拓郎のツアーバンド・メンバーで長年ギターを担当した名ギタリストの青山徹です。現在は、自身でお店を経営しているといううわさもありますが、真相は定かではありません。
青山徹(ギタリスト)のプロフィール
青山徹(ギタリスト)のプロフィールです。
合歓音楽院(現・ヤマハ音楽院)を1年で退学後に上京し、1972年4月に愛奴のメンバーとなる。
愛奴は、東京の大学に通っていた山崎貴生・町支寛二・高橋信彦の3名がバンド・グルックスを結成後解散。
その後広島時代からの有人の青山徹と浜田省吾の2人が加わり「愛奴」が結成された。
そして、全員が大学を中退して広島へ戻り、半年間、青山徹の実家で練習の日々を過ごした。
1974年、愛奴のデモテープを聞いたCBS・ソニーのスタッフとのオーディションのため上京。
東京のスタジオを訪れ、偶然スタジオにいあわせた広島フォーク村の先輩である吉田拓郎にバックバンドをやらないかと誘われ、プロとして活動をはじめた。
このとき、吉田拓郎のバック・バンドはザ・バンドが務める予定だったが、ザ・バンドがボブ・ディランのツアーに参加するためキャンセルして欠員がでていた。
吉田拓郎の全国ツアーに1年間で17ヶ所をバックバンドとして参加する。
それまでアマチュア・バンドだった愛奴は、いきなり超満員のホールで数千人を前に演奏した。
1974年7月発売のよしだたくろう&かまやつひろしのシングル「シンシア」のB面「竜飛崎」の演奏を愛奴が担当。
愛奴独自でも1975年5月1日、シングル「二人の夏」とアルバム『愛奴』でCBS・ソニーからレコード・デビューを果たしました。
しかし評価は、愛奴のメンバーの演奏技術はもう一つで、特にドラムだった浜田省吾は自分の力量に限界を感じ1975年7月には岡本あつおがドラムとしてメンバーに加わり、浜田省吾はパーカッション担当へ変わります。
メンバーのドラム・ボーカルと作詞担当の浜田省吾が同年 の1976年4月21日にソロ・デビューします。
浜田省吾は愛奴の2枚目のアルバム『LOVE IN CITY』に楽曲を提供しています。
ロックバンド愛奴は1975年にデビューし僅か1年の活動で1976年12月に解散しています。
愛奴のメンバーのうち町支寛二は、その後、浜田省吾と音楽活動をともにしています。そしてベースの高橋信彦も後に、浜田省吾の依頼によりマネージャーで所属事務所「ロード&スカイ」の社長を務めています。
「ロード&スカイ」は、尾崎豊が一時期だけ所属いしていた事務所でもあります。
「二人の夏」は後に浜田省吾がリメイクして自身のソロアルバムに入れています。
青山徹は、愛奴ではGuitarと Vocalを担当。
バンド在籍時から高い演奏技術で評価を得ていた。
1985年7月27日〜28日、愛奴のメンバーは解散後、つま恋多目的広場での吉田のオールナイト・コンサート「ONE LAST NIGHT in つま恋」で一夜限り再結成。
吉田拓郎のバックバンドとして3曲を演奏。
演奏の合間、吉田拓郎から「浜田、前よかドラムうまいな」と言われたシーンがライブレコードにも記録されています。
青山徹(ギタリスト)の音楽活動。
解散後、青山徹はは吉田拓郎のツアーバンド・メンバーを務める。吉田拓郎が青山徹を評して「こんな熱い男は見たことがない」と評価している。
吉田拓郎のツアーバンド・メンバーを務めたのち、スタジオ・ミュージシャンに転身する。
スタジオ・ミュージシャンとして、南こうせつ、竹内まりや、原田真二、世良公則らのツアー、レコーディングに参加した。
山口百恵の曲では「横須賀ストーリー」「曼珠沙華」のギターを演奏。
また松岡直也が結成したロックバンドMASHにも参加。
その間浜田省吾のアルバムにも幾つか参加している。
その後、1990年代半ば頃に音楽業界から引退。
引退理由は、コンピューターサウンド等による打ち込みがメインになってきて自分自身のスタンスをつかむことが難しくなってきたといううわさもあります。
青山徹(ギタリスト)の動画。
まとめ。
今回は「青山徹(ギタリスト)のプロフィールや音楽活動。」というテーマでお送り致しました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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